春二番
8:20スタート。
19.60 km 1時間56分01秒 走りました 10.1 km/h (05'55 /km)
風に煽られながらの強風ラン。
体が揺さぶられるような強風でした。
少し長く走ってみたけど、体には何の変化もなかった。
結構、走れたなという感じでした。
この調子で走り続け、腹が凹めばOK!
19.60 km 1時間56分01秒 走りました 10.1 km/h (05'55 /km)
風に煽られながらの強風ラン。
体が揺さぶられるような強風でした。
少し長く走ってみたけど、体には何の変化もなかった。
結構、走れたなという感じでした。
この調子で走り続け、腹が凹めばOK!
2日酔い?ラン
日差しが強すぎます
7:30スタート。
18.20 km 1時間44分06秒 走りました 10.5 km/h (05'43 /km)
今日は股関節痛もなく、いくらでも走れそうな感覚でした。
しかし、昨夜、入社時の上司に送別会を開いてもらい、1時間の道のりを電車に
ゆられ、帰り際には腹が減り、ラーメン屋でラーメン食べて、
家に帰り、酔いも冷め、また飲んで・・・・
おかげで朝から下痢気味の状態でした。
10㎞過ぎからお腹が冷えてきて、続いて痛みが出現、途中棄権しそうなくらいでしたが
新横浜公園のトイレに駆け込みました。
それからまた調子よく走れました。
今日は、身内が送別会ということで、宿舎にやってきます。
昼間から鍋の予定です・・・
18.20 km 1時間44分06秒 走りました 10.5 km/h (05'43 /km)
今日は股関節痛もなく、いくらでも走れそうな感覚でした。
しかし、昨夜、入社時の上司に送別会を開いてもらい、1時間の道のりを電車に
ゆられ、帰り際には腹が減り、ラーメン屋でラーメン食べて、
家に帰り、酔いも冷め、また飲んで・・・・
おかげで朝から下痢気味の状態でした。
10㎞過ぎからお腹が冷えてきて、続いて痛みが出現、途中棄権しそうなくらいでしたが
新横浜公園のトイレに駆け込みました。
それからまた調子よく走れました。
今日は、身内が送別会ということで、宿舎にやってきます。
昼間から鍋の予定です・・・
週末ランナー
7:15スタート。
16.60 km 1時間33分13秒 走りました 10.7 km/h (05'36 /km)
すっかり週末しか走れなくなってしまった。
年のせいだろうか。朝起きるのが億劫になってしまった。
「看脚下」かんきゃっかと読みます・
禅に「看脚下」という言葉があります。昔、中国に法演(ほうえん)という禅僧がいました。その坊さんが、ある晩、3人の弟子を連れて寺に帰る時のことです。暗い夜道ですから明かりを灯さねば帰れません。その時、一陣の風が吹いてきて、その灯が吹き消され真っ暗になってしまったのです。一向はそこで立ちすくみます。その時、法演が三人の弟子達に向かって質問をしました。「暗い夜に道を歩く時は明かりが必要だ。その明かりが今消えてしまった。さあお前達、この暗闇の中をどうするか言え」と。
ここで暗闇とは、自分の行く先が真っ暗になったということです。例えば、思いも寄らない災難に遭って、前途暗たんたるところをどう切り抜けていくかという問いです。
そこで弟子たちが、それぞれ自分の気持ちを言葉に出して述べた。まず、仏鑑(ぶっかん)という人が「すべてが黒一色のこの暗闇は、逆にいえば、美しい赤い鳥が夕焼けの真っ赤な大空に舞っているようなものだ」と答えました。しかし師匠はうなずきません。
次に仏眼という人が答えた。「真っ暗の中で、この曲がりくねった道は、まるで真っ黒な大蛇が横たわっているようである」と答えた。またも師匠は許しません。
そして最後に、圜悟克勤(えんごこくごん)が「看脚下」(かんきゃっか)と答えました。つまり「真っ暗で危ないから、つまずかないように足元をよく見て歩きましょう」と答えたのです。この言葉が師匠の心にかない「そこだ、その通り」と絶賛したというこです。
暗い夜道で突然明かりが消えたならば、まず今ここでなすべきことは何か。それは他の余計なことは考えずに、つまずかないように足元をよく気を付けて行くということなのです。もう一歩進めて解釈をすると、自分自身をよく見なさいと。つまり、自分の足元を直しながら、我が生き方を深く反省しなさいということなのです。足元を見ると同時に、我が人生の至らなさを見て欲しいのです。未熟である自分に気づく、発見する・・・。足元を見ると言う事の中には、そういう大事な意味があるのです。ここに、もうちょっと違った人生の見方ができるのではないでしょうか。
(正法山妙心寺臨済宗妙心寺引用)
16.60 km 1時間33分13秒 走りました 10.7 km/h (05'36 /km)
すっかり週末しか走れなくなってしまった。
年のせいだろうか。朝起きるのが億劫になってしまった。
「看脚下」かんきゃっかと読みます・
禅に「看脚下」という言葉があります。昔、中国に法演(ほうえん)という禅僧がいました。その坊さんが、ある晩、3人の弟子を連れて寺に帰る時のことです。暗い夜道ですから明かりを灯さねば帰れません。その時、一陣の風が吹いてきて、その灯が吹き消され真っ暗になってしまったのです。一向はそこで立ちすくみます。その時、法演が三人の弟子達に向かって質問をしました。「暗い夜に道を歩く時は明かりが必要だ。その明かりが今消えてしまった。さあお前達、この暗闇の中をどうするか言え」と。
ここで暗闇とは、自分の行く先が真っ暗になったということです。例えば、思いも寄らない災難に遭って、前途暗たんたるところをどう切り抜けていくかという問いです。
そこで弟子たちが、それぞれ自分の気持ちを言葉に出して述べた。まず、仏鑑(ぶっかん)という人が「すべてが黒一色のこの暗闇は、逆にいえば、美しい赤い鳥が夕焼けの真っ赤な大空に舞っているようなものだ」と答えました。しかし師匠はうなずきません。
次に仏眼という人が答えた。「真っ暗の中で、この曲がりくねった道は、まるで真っ黒な大蛇が横たわっているようである」と答えた。またも師匠は許しません。
そして最後に、圜悟克勤(えんごこくごん)が「看脚下」(かんきゃっか)と答えました。つまり「真っ暗で危ないから、つまずかないように足元をよく見て歩きましょう」と答えたのです。この言葉が師匠の心にかない「そこだ、その通り」と絶賛したというこです。
暗い夜道で突然明かりが消えたならば、まず今ここでなすべきことは何か。それは他の余計なことは考えずに、つまずかないように足元をよく気を付けて行くということなのです。もう一歩進めて解釈をすると、自分自身をよく見なさいと。つまり、自分の足元を直しながら、我が生き方を深く反省しなさいということなのです。足元を見ると同時に、我が人生の至らなさを見て欲しいのです。未熟である自分に気づく、発見する・・・。足元を見ると言う事の中には、そういう大事な意味があるのです。ここに、もうちょっと違った人生の見方ができるのではないでしょうか。
(正法山妙心寺臨済宗妙心寺引用)
気持ちはいります
7:10スタート。
14.60 km 1時間21分34秒 走りました 10.8 km/h (05'34 /km)
もう見ることがない風景だと思うと、気持ちが入ります。
「日々是好日」にちにちこれこうじつ
どんな日もいい日だと言えますか。
「日々是好日」は、どんな日でも毎日は新鮮で最高にいい日だという意味です。
むかつく日も悲しい日も、雨の日も風の日も、その時のその感情や状態を大いに味わって過ごせば、
かけがえのない日になる。
新鮮な気持ちで目覚めたら、雨を楽しもう、寒さも味わおう。 ほっとする禅語 より
(これは私がこの禅語の意味として、最も適していると思われる文である。)
中国唐時代の雲門文偃(ぶんえん)禅師の語で知られる。
雲門禅師はある日、大勢の弟子たちに向かって「十五日以前のことはさておき、
これからの十五日以後の心境を一言でのべなさい。」とたずねた。
だが誰もすぐに返答が出来ずにいると雲門は自ら、即座に「日々是好日」と答えた。
この語を文字通りに解釈すれば「毎日が平安で無事の日である」と云う意味であるが、
単に毎日がよい日であるのでは禅的解釈にはならない。雲門はなぜ「日々是好日」と云ったのかに
疑問を抱き、その心を解くところにこの語の教えがあり真意があるのだ。
「十五日以後の心境を」を問われた弟子たちは皆、十五日後に答えることを考えたことだろう。
しかし、雲門は自ら十五日と云う期間を示しながら、実は即今、即座の答えを求めていたのだ。
無常迅速 時人を待たずである。
親鸞聖人は「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かんともかな」と歌われているように、
「今ここで自分の境地が述べられなくて、一体いつ言うときがあるのか。
無常迅速、時人を待たずであり、はたして明日と云う時があるとは限らないではないか?
この一瞬のところを大事にせよ」と云うこと教え示した言葉が「日々是好日」なのである。
平々凡々、何事のさわりの無い穏やかな日々だけが「日々是好日」ではない。
多くの人は「今日も一日よい日でありますように」と願い、無事を願う。
しかし現実はその願いの通りにはいかないで、雨の日、風の日があるように様々な問題が起き、
悩ませられることばかりかもしれない。しかし、どんな雨風があろうとも、日々に起きる
好悪の出来事があっても、この一日は二度とない一日であり、かかけがえの無い一時であり
、一日である。この一日を全身全霊で生きることができれば、まさに日々是れ好日となるのである。
好日は願ってえられるものではなく、待ってかなえられるものではない。自らの生き方に日々に
好日を見出しえなければならないのだ。時の時とするときは来ない、只座して待つのでなく
主体的に時を作り充実したよき一日一日として生きていくところにこの語の真意がある。
相田みつをさんは次のように述べています。
日常の生活の中では、いや(・・)なことがいっぱい起こりますね。
日日好日どころか、毎日が悪日の連続。「なんの悪いこともしないのに、
私だけがなんでこんなに苦しまなければならないのか。
神も仏もあったものではない」と、自分の不幸を嘆く日もあるでしょう。
それでも雲門禅師は『日日是好日』というのです。
雲門禅師のいう好日とは、好い日、悪い日という比べっこ(・・・)をやめた話なんです。
つまり、好悪を越えた話です。自分の都合という〈物差し〉を捨てた時の話です
14.60 km 1時間21分34秒 走りました 10.8 km/h (05'34 /km)
もう見ることがない風景だと思うと、気持ちが入ります。
「日々是好日」にちにちこれこうじつ
どんな日もいい日だと言えますか。
「日々是好日」は、どんな日でも毎日は新鮮で最高にいい日だという意味です。
むかつく日も悲しい日も、雨の日も風の日も、その時のその感情や状態を大いに味わって過ごせば、
かけがえのない日になる。
新鮮な気持ちで目覚めたら、雨を楽しもう、寒さも味わおう。 ほっとする禅語 より
(これは私がこの禅語の意味として、最も適していると思われる文である。)
中国唐時代の雲門文偃(ぶんえん)禅師の語で知られる。
雲門禅師はある日、大勢の弟子たちに向かって「十五日以前のことはさておき、
これからの十五日以後の心境を一言でのべなさい。」とたずねた。
だが誰もすぐに返答が出来ずにいると雲門は自ら、即座に「日々是好日」と答えた。
この語を文字通りに解釈すれば「毎日が平安で無事の日である」と云う意味であるが、
単に毎日がよい日であるのでは禅的解釈にはならない。雲門はなぜ「日々是好日」と云ったのかに
疑問を抱き、その心を解くところにこの語の教えがあり真意があるのだ。
「十五日以後の心境を」を問われた弟子たちは皆、十五日後に答えることを考えたことだろう。
しかし、雲門は自ら十五日と云う期間を示しながら、実は即今、即座の答えを求めていたのだ。
無常迅速 時人を待たずである。
親鸞聖人は「明日ありと思う心のあだ桜夜半に嵐の吹かんともかな」と歌われているように、
「今ここで自分の境地が述べられなくて、一体いつ言うときがあるのか。
無常迅速、時人を待たずであり、はたして明日と云う時があるとは限らないではないか?
この一瞬のところを大事にせよ」と云うこと教え示した言葉が「日々是好日」なのである。
平々凡々、何事のさわりの無い穏やかな日々だけが「日々是好日」ではない。
多くの人は「今日も一日よい日でありますように」と願い、無事を願う。
しかし現実はその願いの通りにはいかないで、雨の日、風の日があるように様々な問題が起き、
悩ませられることばかりかもしれない。しかし、どんな雨風があろうとも、日々に起きる
好悪の出来事があっても、この一日は二度とない一日であり、かかけがえの無い一時であり
、一日である。この一日を全身全霊で生きることができれば、まさに日々是れ好日となるのである。
好日は願ってえられるものではなく、待ってかなえられるものではない。自らの生き方に日々に
好日を見出しえなければならないのだ。時の時とするときは来ない、只座して待つのでなく
主体的に時を作り充実したよき一日一日として生きていくところにこの語の真意がある。
相田みつをさんは次のように述べています。
日常の生活の中では、いや(・・)なことがいっぱい起こりますね。
日日好日どころか、毎日が悪日の連続。「なんの悪いこともしないのに、
私だけがなんでこんなに苦しまなければならないのか。
神も仏もあったものではない」と、自分の不幸を嘆く日もあるでしょう。
それでも雲門禅師は『日日是好日』というのです。
雲門禅師のいう好日とは、好い日、悪い日という比べっこ(・・・)をやめた話なんです。
つまり、好悪を越えた話です。自分の都合という〈物差し〉を捨てた時の話です
案ずるより産むが易し
ボッタクリ
弥生3月
7:40スタート。
14.60 km 1時間28分50秒 走りました 9.9 km/h (06'05 /km)
またまた、久々のラン。
2月走ったのは2日だけ。お腹がぶよである。
3月はピリッとした日々を送りたいものです。
一般に2月は逃げる、3月は去ると言われているほどだからあっという間に4月が来る。
1日1日を充実させて生きないともったいないない。と思う・・・。
14.60 km 1時間28分50秒 走りました 9.9 km/h (06'05 /km)
またまた、久々のラン。
2月走ったのは2日だけ。お腹がぶよである。
3月はピリッとした日々を送りたいものです。
一般に2月は逃げる、3月は去ると言われているほどだからあっという間に4月が来る。
1日1日を充実させて生きないともったいないない。と思う・・・。