瀬戸大橋
瀬戸大橋の建設所長=責任者だった 杉田秀夫 さんの人生と言葉、杉田さんの含蓄のある・重い言葉は、母校県立丸亀高校で全高校生に講演した際、語られた。
尚、本文は 文芸春秋発行:プロジェクトX リーダー達の言葉 を参考文献にしています。
「橋をつくるということの経験が人より多少に余計にあったからといって、これは人生の価値と全く別のことなんですね
人生の価値とは何か、偉大なる人生とはどんな生活を言うのか。
これは非常に難しい問題なんです。
瀬戸大橋をつくるよりはるかに難しい問題です。」
杉田さんの略歴を述べる。
昭和6年千葉県印旛郡で生まれる。父の転勤で丸亀市に移住。昭和20年陸軍幼年学校に入学。敗戦後、旧制丸亀中学に入学。家は貧しい家庭であった。東大工学部に入学。旧国鉄に入社。国鉄では、いくつかの難工事を担当し、実力は国鉄では有名だった。
本四公団への出向という中途半端な状態ではこの難工事は完遂出来ないとし、本四公団に転籍。通常3年間で転勤になる現場所長に10年勤務し、瀬戸大橋を完成させた。
工事中、妻が突然末期癌に侵された。妻にも会社にも家族にも病名は伏せていた。
毎晩、仕事が終えると妻の病室に泊まり込み、点滴から下の世話までし床にマットを敷いて寝た。朝は妻の洗濯ものを家に持ち帰って洗い、子供達の食事の準備をし、新しい着替えを病院に届けてから出勤した。
妻は工事途中で亡くなったが、瀬戸大橋は完成させた。
その後、彼は第一線の現場に立ちたいという夢は、子供を育てるのを優先し諦めた。
工事完成後、本四公団の東京本社に転勤した。
杉田は後半生を三人の娘に捧げた。長女は中学二年生、次女は小学五年生、三女は小学二年生だった。毎朝5時半に起き、食事の準備をし娘たちの弁当を作り、洗濯をし三人を起こして食事をさせ出勤した。
帰宅途中に献立を考えて買い物をし、毎晩夕食を作った。その後、あとかたづけをしアイロンをかける日課を続けた。
再婚の話もあったが、全て断った。
困難な工事が有り杉田しかいないと要請があった際、もう一度現場に立ちたいという願いはあったが、その思いを封印するように本四公団を止め、海洋架橋調査会に移った。
これで、第一線の現場に出てみたいという 夢 は、終わった。
杉田は学術論文を書くということは、好みでなかった。
母校、丸亀高校生徒会から寄稿の依頼を受け、ためらった末、書いた文章が残っている。
私は自ら志を立てることも無く、人生何をなすべきかも分からないまま世の中に出てしまったのですが、出たとたんに次から次へと具体的な目標を与えられたものですから、常に何をなすのではなくて如何になすべきかだけを考えていればよかったのです。
瀬戸大橋の仕事もその延長線でした。
それはいくら難しくても本質的には単純なことなのです。
目標に対して迷うことがないからです。
迷う暇がなかった人生も一つの人生ではありますが、それは語るに値しません。
『人生の深みは、人間的な迷い・悩み・苦しみの深さを通して生まれるものだと思います』
平成5年、娘たちに囲まれ62歳の生涯を閉じた。
瀬戸大橋と娘3人を育てるという困難な人生の業務を淡々とやり遂げ、62歳の若さで去っていった。
(日暮れの徒然日誌さんのブログから引用)
プロジェクトX「私が惚れた男「杉田秀夫」」
http://m.youtube.com/watch?v=a_bkV2FeyVQ
尚、本文は 文芸春秋発行:プロジェクトX リーダー達の言葉 を参考文献にしています。
「橋をつくるということの経験が人より多少に余計にあったからといって、これは人生の価値と全く別のことなんですね
人生の価値とは何か、偉大なる人生とはどんな生活を言うのか。
これは非常に難しい問題なんです。
瀬戸大橋をつくるよりはるかに難しい問題です。」
杉田さんの略歴を述べる。
昭和6年千葉県印旛郡で生まれる。父の転勤で丸亀市に移住。昭和20年陸軍幼年学校に入学。敗戦後、旧制丸亀中学に入学。家は貧しい家庭であった。東大工学部に入学。旧国鉄に入社。国鉄では、いくつかの難工事を担当し、実力は国鉄では有名だった。
本四公団への出向という中途半端な状態ではこの難工事は完遂出来ないとし、本四公団に転籍。通常3年間で転勤になる現場所長に10年勤務し、瀬戸大橋を完成させた。
工事中、妻が突然末期癌に侵された。妻にも会社にも家族にも病名は伏せていた。
毎晩、仕事が終えると妻の病室に泊まり込み、点滴から下の世話までし床にマットを敷いて寝た。朝は妻の洗濯ものを家に持ち帰って洗い、子供達の食事の準備をし、新しい着替えを病院に届けてから出勤した。
妻は工事途中で亡くなったが、瀬戸大橋は完成させた。
その後、彼は第一線の現場に立ちたいという夢は、子供を育てるのを優先し諦めた。
工事完成後、本四公団の東京本社に転勤した。
杉田は後半生を三人の娘に捧げた。長女は中学二年生、次女は小学五年生、三女は小学二年生だった。毎朝5時半に起き、食事の準備をし娘たちの弁当を作り、洗濯をし三人を起こして食事をさせ出勤した。
帰宅途中に献立を考えて買い物をし、毎晩夕食を作った。その後、あとかたづけをしアイロンをかける日課を続けた。
再婚の話もあったが、全て断った。
困難な工事が有り杉田しかいないと要請があった際、もう一度現場に立ちたいという願いはあったが、その思いを封印するように本四公団を止め、海洋架橋調査会に移った。
これで、第一線の現場に出てみたいという 夢 は、終わった。
杉田は学術論文を書くということは、好みでなかった。
母校、丸亀高校生徒会から寄稿の依頼を受け、ためらった末、書いた文章が残っている。
私は自ら志を立てることも無く、人生何をなすべきかも分からないまま世の中に出てしまったのですが、出たとたんに次から次へと具体的な目標を与えられたものですから、常に何をなすのではなくて如何になすべきかだけを考えていればよかったのです。
瀬戸大橋の仕事もその延長線でした。
それはいくら難しくても本質的には単純なことなのです。
目標に対して迷うことがないからです。
迷う暇がなかった人生も一つの人生ではありますが、それは語るに値しません。
『人生の深みは、人間的な迷い・悩み・苦しみの深さを通して生まれるものだと思います』
平成5年、娘たちに囲まれ62歳の生涯を閉じた。
瀬戸大橋と娘3人を育てるという困難な人生の業務を淡々とやり遂げ、62歳の若さで去っていった。
(日暮れの徒然日誌さんのブログから引用)
プロジェクトX「私が惚れた男「杉田秀夫」」
http://m.youtube.com/watch?v=a_bkV2FeyVQ
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